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 っては、二人で一人の役しかしない有色人種夫婦の召使、信じられぬほど老齢であるからか、おそろしく不明瞭な発音をするフランス人の家政婦、あとは主人であるカーウィン自身と、わずか四名の家族であるのに、燈火がともるころになると、何十人分かの大量の食糧が運びこまれる。そしてまた、時ならぬ時に、押し殺した調子で語られる怪しげな会話。それらの事実が、ポートゥックスト街道の農場が立てている悪い噂に結びつくのは当然のことだった。  プロヴィデンスの町の上流階級のあいだでも、カーウィンについての風評が論議されなかったわけではない。しかしこの新来者は、移り住むと同時に、教会と実業界に働きかけ、ら、上流人士と近付きになり、この友好と会話を楽しむのに、じゅうぶんな資格をそなえているのを証明した。彼の生家が、落ちぶれたとはいえ名門の末裔であるのは、だれ知らぬものはなく、セーレムのカーウィン家といえば、ニューイングランドでは紹窩輪報價介の必要のない家柄だった。しかもジョゼフ・カーウィンは、若い頃のことではあるが、外地を旅行して歩き、しばらくはイギリス本土にも住みつき、少なくとも二回は、東洋へまで足を伸ばしていた。したがって、元来無口の彼が、折りにふれて会話の仲間入りをすると、その内容は学識ゆたかなイギリス人のものであった。しかし、どんな理由があるのか、カーウィンは社交を好まなかった。訪問客を拒絶するまでのことはないのだが、いつも身のまわりに、慎みの壁をめぐらして、彼に話しかける相手は、みずからの無知を意識させられることになる。  しかし、彼の挙措動作を精細に観察するときは、そこに冷笑的な傲慢さがひそんでいるのが見てとれた。異常にして力強い存在のあいだに生活していたことで、人類の愚鈍さを知りつくしたといわぬばかりの態度がちらつくのだった。一七八三年のことであったが、機知で知られたチェクリー博士が、キングズ教会の牧師として、ボストンから赴任してきた。博士はその以前から、ジョゼフ・カーウィンの名声を伝え聞いていたので辦公室屏風、これを訪問することを忘れなかった。しかし、わずかの時間話しあっただけで、博士はそうそうにして暇《いとま》を告げた。主人の談話のうちに、なにか邪悪な底流を感じとったからである。この善良にして明朗な気質の聖職者は、よほど怖ろしいショックを受けたとみえて、そのときの会話の内容を、人に洩《も》らそうともしなかった。いや、それどころか、その後は、カーウィンの名を口にすることもしなかった。おそらくは、ジョゼフ・カーウィンと聞いただけで、明るい機知に富んだ博士の上品さも、いっきょに吹きとぶおもいであったのだろう。それについて、チャールズ・ウォードは、ある冬の夕べ、父に話して聞かせたことがある。そしてまた、当時の日記作家たちにしても、まったく同意見であったようだ。  しかし、この間の事情をより明確に物語るのは、氏《うじ》と育ち